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2011-06-26

「覚悟」というもの

最近年賀状以上の付き合いは無くなったが、小生には民間航空会社のパイロットになった友人が居る。大学時代、同じ工学部で学び、同じ写真部で遊んだ。小生らが大学に入学したその月に、チェルノブイリ事故があった。その前の年の夏には、日航機の墜落事故が起きている。

その友人は、「飛行機は落ちるものである」と理解し、その上でパイロットになった。

その友人は、「日本の原子炉でもチェルノブイリ事故のようなことは起きるに決まっている」と言っていた。小生は「まず、起きることは無い」と反論していたものである。

飛行機は、毎年、世界のあちこちで落ちており、「落ちるものである」と誰もが自然と理解している。その上で、旅行する乗客は、「自分の便が落ちることは、まず無い」と漠然と思っているに違いない。小生もそうである。職業人としてパイロットになった友人は、乗客とは違うもう少し上質な何か、「覚悟」のようなものがあるに違いない。

原子炉から大量の放射性物質が放出される事態は、世界で、チェルノブイリ事故の後、今回の福島の事故まで起きていなかった。小生は原子力畑で働いているが、「チェルノブイリ事故のようなこと」は、「日本では、まず無い」と漠然と感じていた。「覚悟」は出来ていなかったのである。

いろいろな意見はあるだろうが、公式に、福島のような事故がまったく想定されていなかったか、と問えば、そうではない。原子力の防災に関する法律や、原子力事故の損害賠償に関する法律が、国でちゃんと定められているのである。ただ、原子力関係者の「気持ち」の問題として、やはり「覚悟」は不十分だったように思われる。

「覚悟」には、「そもそも、何がどうなったらマズイのか」という問題の設定を明確にしておくことも含まれる。

飛行機が落ちれば人命が失われる。しかし、個々の事故が政治的に問題になることはあまりない。自動車事故による犠牲者についても同じである。失われる人命の数が多いと問題になる。航空機事故の調査や安全性改善、自動車交通安全の問題などが政治や行政で議論されるが、そこでは、人の命の数が統計量として扱われ、量として犠牲者数を減らすことによって結果は良しとされる。事故の数や犠牲者の数をゼロにすることは、暗黙のうちに無理なこととして諦められている。この諦めを小生は悪いとは思わない。「覚悟」であって重要なことである。

日本で原子力利用をしていく上で必要な「覚悟」は何か? その「覚悟」が出来ないならば、原子力利用は止めるべきではないか?

福島の事故で、放射線の影響で人命が失われたことは、まだ、無い。長い目で見て関係者のうち何人かガンで亡くなるかもしれない。しかし、飛行機事故で毎年失われる人命の数に比べれば、殊更大きな数字にはならないだろう。このような比較、人命を「量」として扱うことを原子力関係者が行うと、激しい非難に遭う。この点は小生は不思議だ。原子力以外の分野では、この類の議論はあまり問題視されないからである。今回の震災だけを見ても、津波で直接的に失われた人命について、政治的な議論にならないのは何故か?

小生は、原子力安全や防災の問題は、実は人命の問題ではないように考え始めている。放出された放射性物質で汚染された地域が、当面居住不能になることが大きい。津波だけならば復興は早い。これは、農耕文化の下では特に深刻に受け止められる。土地を奪われることは、社会として、人命の損失よりも重大なことかもしれない。もし狩猟文化や遊牧文化であれば、環境が変われば居住場所も変わるということが、ずっと自然に受け入れられそうに思う。この点で、日本の文化の有り様をよく考えなければならない。

大学卒業後20年を経て、小生は「日本の原子炉でもチェルノブイリ事故のようなことは起きる」ことを目の当たりにした。小生はサラリーマンなので住む場所が変わることはまったく抵抗が無い。そもそも、自身が命を落とすかもしれない「覚悟」のある職業パイロットとは異質である。しかし、この原子力分野で仕事をする者として、問われれば「原子力利用のリスクとして、事故の結果、立地地域の居住環境を奪うことは在り得ます」と明確に答える社会的・政治的「覚悟」が必要になりそうだ。

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